地震漫談(其の31) 地震學實驗所の創設と服部一三先生 今村明恆

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地 震 漫 談(其 の31)
地震學實驗所の創設と服部一三先生
今村明恆

余 は本誌第7卷 第10號 に 「地震學教室の創設 と關谷先生」 と題する一漫談 を掲げ さして貰つた。 これ は地震學教室の創設 を明治18年9月7日と認 めるといふのが主 な趣 旨で あつたのだが,同 時 に地震學 實驗所 の創設時期にまで論及 したのであつた.即 ち同實驗所 の創設 を も亦 同年同月同 日に ありと認 めた ので あつた.
我曾在本雜誌第7卷第10號上發表了一篇題為《地震學教室的創設與關谷先生》的隨筆。這篇文章的主要內容是論證地震學教室的創設日期為明治18年(1885年)9月7日,同時也論及了地震學實驗所的創設時期。即承認該實驗所的創設日期也為同年同月同日。

如上の結論に到達 した道程 に就て は前 に詳説 した こ とだか ら,繁 雜 を厭ひ,こ ゝには之 を略 する ことにす る.唯 此の結論 に對 して當初か ら相容れなかつた一疑 問のあつた ことは再説 せねばな らぬ.即 ち其れ は東京帝國大學一覽に現れてゐ る 「地震學實驗所 は明治13年 の創設に係 る」 といふ一句である.併 し此 の文 句の續 きになつてゐる 「震災豫防調査會にて施行する種々の地震 調査事項 に關 して其研究 を幇助」雲 々 「理科大學地質學物理學工科大學土木工學建築學 の學生に地震學 の講義 を授 く」雲 々は地震學教室の職 とする所 であるか ら,教室 と實驗所 とが 同體でない限 り通用 しない.其故 に冒頭 の句に一沫 の不安 を殘 しなが ら,兩 者 を以て異名同體な りと斷じた所以であつた.
關於得出上述結論的過程,之前已經詳細說明過了,因此為了避免繁瑣,這裡略過不談。不過,我必須再次提到一個從一開始就無法完全接受的疑問。這個疑問源於《東京帝國大學一覽》中提到的"地震學實驗所是明治13年(1880年)創設"這一句話。然而,接下來所說的"震災預防調查會負責實施各種地震調查事項,並協助其研究"以及"為理科大學地質學、物理學、工科大學土木工程、建築學的學生授課地震學"等等職責,實際上是地震學教室的職責。所以,除非教室和實驗所是同一個實體,否則這些職責無法統一。因此,儘管對於開頭那句話仍存有一絲不安,我還是斷定兩者是異名同體的。

近 頃河角理學 士に注意 され る所 があつて上記の地震學實驗所の創 設に關す る結論 を訂正す る必要 を生 じた.即 ち其創設 は矢張文字通 り明治13年である.さ うして地震學教室の創 設に よ りて これ に併合 された もの と解 され る.但 し此の併 合は組織に關す る ものであつ て,施 設 と して は今 日に於て も兩者 を區別 する ことが 出來 る.即 ち地震學 教室は明治18年 現在の東大 構內 に創設 されたが,地 震學 實驗所 は此 の時神 田一橋外舊帝大の敷地內に取殘 され,以 て大 正12年 震災當時 に及んだ.今 でこそ實驗所の位置は不明であ るが近 く一橋外の舊位置附近 に復活する もの と期待 してゐ る.
最近,在河角理學士的提醒下,我發現有必要修正關於上述地震學實驗所創設的結論。即其創設確實如文字所述,是在明治13年(1880年)。隨後,該實驗所被併入地震學教室。不過,這種併合僅涉及組織層面,在設施上,至今仍可將兩者區分開來。即地震學教室創設於明治18年(1885年),位於現今的東京大學校內,而地震學實驗所當時則留在神田一橋外舊帝大的地盤上,直至大正12年(1923年)震災時仍在此處。雖然現在實驗所的位置已不明確,但期望不久之後能在一橋外舊址附近恢復。

右 に關 して 河 角 理 學 士 が 提 供 して くれた材 料はEwing先 生の名著Earthquake Measurementで あ る.此 の書 物の冒頭 に掲げた序文に
My special acknowledgments are due to Mr. Kato, the President of the University, to Mr. Hamao, the former Vice-President, and to Mr. Hattori, the present holder of that office, for providing me with the means of establishing a Seismological Observatory.
とあ り,又 本文 の 中に
the present writer was enabled, through the liberality of the President of the University of Tokio, to establish a seismometrical observatory there in 1880. The instruments originally erected were the long pendulum with two multiplying pointers, and the horizontal pendulum, or rather pair of horizontal pendulums, also with multiplying pointers.
とある.即 ち地震學實驗所が明治13年 に創設 されたのは誤 りのない事實であ る。余 が明治28年 以來 地震 計の調節の爲 に通つた一橋外の地震計室は4間 ×5間 位 の瓦葺平家建であつて,土 間に地震 計の臺が築上げてあつた樣 記憶 してゐるが,こ れが 即ち其の明治13年 創設の もので あつた らしい.

關於此事,河角理學士提供的資料是Ewing先生的名著《Earthquake Measurement》。這本書的序文開頭提到:

"My special acknowledgments are due to Mr. Kato, the President of the University, to Mr. Hamao, the former Vice-President, and to Mr. Hattori, the present holder of that office, for providing me with the means of establishing a Seismological Observatory."

並且在正文中提到:

"the present writer was enabled, through the liberality of the President of the University of Tokio, to establish a seismometrical observatory there in 1880. The instruments originally erected were the long pendulum with two multiplying pointers, and the horizontal pendulum, or rather pair of horizontal pendulums, also with multiplying pointers."

這明確表明地震學實驗所在明治13年(1880年)創設是無誤的事實。自明治28年(1895年)以來,我為了調試地震儀器,經常前往一橋外的地震計室。那是一棟大約4間×5間的瓦頂平房,地震儀器的台座建在泥土地面上。據我的記憶,這就是明治13年創設的地震學實驗所。



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上 記ユ ーイ ング先生の文 中に東京大學 副總理服部先生の 名 が 現 れ て ゐる.こ れ は其後兵庫縣知事 な どを勤め貴 族院議員で終 つた服部一三先生のことである.併 し地震 の學徒 に取 りては寧 ろ夫の張衡 の候風地動儀の紹介者 としての服部 さんの方が親 しみ深 い氣持がす る.張 衡の地動儀の發 明は後漢 陽嘉元年で あつて ミル ン先 生に據れば此 年は西紀136年(事 實は132年)だ といふのだか ら,丁 度1800年 前 に當 る譯 だ.こ れ も興味深い ことであ るが,併 し服部 さんが後漢張衡傳 を讀み,畫 工 をして其 の發明に係 る候風地動儀 を畫 か しめた こと も亦 同樣 に興 味深 く感 ぜ られ る.頃 は明治8年吾が 國で はまだ地震學 の研究 もな く,僅 に內務省地理 局に於て地震 の記録統計を始 めたに過 ぎない時代 の ことであ る。此の圖 は其後 內外の地震書にも複製 せ られ てゐるが,原 圖は61年 後 の今 日猶ほ地震學教室の壁間に掲げ られ,例 の龍 と蟾蜍 とが龍 口にあ る玉 をめ ぐつ て睨み合 つてゐる。
在上述Ewing先生的文字中提到的東京大學副總理服部先生,指的是後來擔任兵庫縣知事並以貴族院議員身份結束生涯的服部一三先生。然而,對於地震學的學徒而言,更為親切的是這位服部先生作為古代科學家張衡的候風地動儀的介紹者。張衡發明地動儀是在東漢陽嘉元年(公元132年),據Milne先生的說法,那一年是公元136年,恰好是1800年前。這本身就很有趣,但是更有趣的是,服部先生讀了《後漢書·張衡傳》後,請畫工畫出了張衡發明的候風地動儀的圖像。當時是明治8年,我國尚未開始地震學的研究,僅在內務省地理局開始了地震記錄和統計工作。這個圖後來在國內外的地震學書籍中多次被複製,而原圖至今仍掛在地震學教室的牆上,龍和蟾蜍圍繞著龍口中的珠子對峙的場景依舊清晰可見。

服部 さんに就 て今 一つ地震學徒 と して忘れ難 い ものが ある.そ れ は昭和2年 丹後大地震直後の こと,貴 族院 の壇上か ら叫ばれた一節 に 「瑣末 な用途の詮議立 てなどを しないで,地 震學 の研究に必 要 といふ費用 は十分 に出してやれ 」 といふのがあつた樣 に記憶す る.恐 らくは これが服部 さんの議政壇上か らの最後の獅子吼であつたの だ らう.
關於服部先生,作為地震學徒,還有一件難以忘懷的事情。那是在昭和2年(1927年)丹後大地震之後不久,服部先生在貴族院的演講台上呼喊的一段話,大意是:"不要糾結於瑣碎的用途審查,對於地震學研究所需的費用,要充分提供。"我記得這可能是服部先生在議政壇上的最後一次激情演講。

明治13年 は上 に記 した通 り地震學實驗所の創設 された年であ るが,それ と同時に 日本地震學會が創設 された年で もある.此 の時會長 として選ばれたのは工部 卿山尾庸三氏であつたが 山尾 氏は多忙の故 を以て此の位置 を受けられ なかつた ので,其 の代 りに選ばれたの は服部 さんで あつた.さ うして服部 さんは明治15年 まで此の位置 を保 ち,吾 が國に於 ける地震 開發の礎石 を置 くことに多大 な援助 を與へ られた ものであつた.斯 樣 な因縁 を辿つて見るとき,ユ ーイ ング先生名著序文 の中に指摘 され た 東 京 大 學 總理,同 新舊 副總理三名の中服部 さんの名前が殊に光 つてゐるや うな感 じがす る.
明治13年(1880年)不僅是地震學實驗所創設之年,也是日本地震學會創設之年。當時被選為會長的是工部卿山尾庸三氏,但由於山尾氏事務繁忙無法接受這一職位,便由服部先生代替。服部先生擔任會長直到明治15年(1882年),對奠定日本地震研究的基礎做出了巨大貢獻。

追溯這些緣由,在Ewing先生名著序文中提到的東京大學總理和新舊副總理三人中,服部先生的名字顯得尤為光輝。這種背景使得服部先生在地震學的發展史上具有特別重要的地位和貢獻。

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