日本學者今村明恆對複製張衡地動儀的解說

支 持 本 站: 捐贈伺服器等運維費用,需要您的支持!

鯰のざれごと 今村明恆 著,三省堂,昭和16年

ミルン の 名著 「地震 と 其他 の 地動」 に は 張衡 が 地動儀 を 創作 した の を 西紀 一 三 六 年 の こと として ある。 吾 々 は 無條件 に 之 を 信じ てゐ た ので、 其 の 年 から 滿 千 八 百年 に 當 る 昭和 十 一 年 に は、 發明 者 の 爲、 何 か 意義 ある 記念 事業 を やら う といふ こと を 、同人 石本 博士 等 と 申 合せ てゐ た。 例 へば 候 風 地動儀 の 複製 、張衡 の 経歴業績 を 調べ て 之 を 世に 公 に する こと 等 で ある 。

米倫的名著《地震與其他地動》中提到,張衡在西曆136年創作了地動儀。由於我們毫不猶豫地相信這一點,因此在昭和11年,距離那一年已有1800年,為了紀念這位發明家,我們和同人石本博士等人商定,打算開展一些有意義的紀念活動。例如,複製候風地動儀,調查張衡的生平和成就,並將其公之於眾等。

余 は、 此 の 年、 印度洋 經由 で 渡 歐 した が、 船 は 其 の 往復 を 上海 に 寄港 した ので、 此 の 機會 を 利用 し て 張衡 に 關 する 文獻 を 捜索 し て 見 た。 そして 入手 した の が 張 河間 集 といふ 古本 と、 新刊 の 張衡 年譜 (孫文靑 著) と で あっ た。 これ と 後 漢書 張衡 傅 と を 參照 する こと により、 彼 の 業績 經歴 は、 一 通り 明か に なつ て 來 た ので、 先 づ 目的 の 一半 は 達成 され た 譯 で ある 。

在這一年,我通過印度洋前往歐洲,船隻在往返中寄港上海。藉此機會,我搜索了與張衡有關的文獻。我獲得的是一本名為《張河間集》的古籍和一本新刊《張衡年譜》(孫文青著)。通過參考這些資料以及《後漢書·張衡傳》,他的業績和經歷基本上都已經明確了。因此,我可以說我的最初目標已經達到了一半。

殘る は 候 風 地動儀 の 複製 で ある が、 之 に も 略 ぼ 成功 した。 但し、 吾 々 は、構造・性能及び外観 何れ も 實物 に 違 は ぬ もの、 五箇 を 製作 しよう と 企 て た ので ある が、 現下 の 事 の 爲 に 所要 の 地 金 が 得 られ なくなり、 製造 を 一時 中止 し なけれ ば なら なくなっ た の は 遺憾 で ある。

剩下的是候風地動儀的複製,而在這方面我們也取得了一些成就。然而,我們曾計劃製作五個複製品,其結構、性能和外觀都與實物無異。可是,由於當前的一些原因,我們無法獲得所需的金屬材料,因此不得不暫時中止製造,這是一件令人遺憾的事情。



支 持 本 站: 捐贈伺服器等運維費用,需要您的支持!

以下 順次 に 其 の 詳細 を 述べる こと に する。
其 一 候 風 地動儀 の 複製
先 づ 此 の 器械 の 性能 構造 及び 外觀 を 説明 する。 後 漢書 張衡 傳 に は 次 の やう に 解説 し て ある。
「 陽 嘉 元 年、 復 た 候 風 地動儀 を 造る。 精 銅 を以て 鑄 成する。圓徑 八 尺、 合 蓋 隆起 し、 形 酒 尊 に 似 たり。 飾る には篆 文山 龜 鳥獣 の 形 を以て す。 中 に 都柱 あり、 傍 に 八道 を 行 らし、 關 を 施し 機 を 發 せ しむ。 外 に 八龍 あり、 首 に 銅 丸 を 銜め、 下 に 蟾蜍 あり、 口 を 張り て 之 を 承け しむ。 其 の 牙機 は 巧み に 制 せ られ、 皆 隠れ て 尊 中 に あり、 覆蓋 は 周密 にし て 際 なし。 如 し 地動 あら ば 尊 は 則 ち 振 ひ、 龍 の 機 發 し て 丸 を 吐き、 而 し て 蟾蜍 これ を 銜 む。 振 聲 激しく 揚 り、 伺者 これ に 因 て 覺 知 す。 一 龍 機 を 發 す と 雖 も 而 も 七 首 は 動か ず、 其 の 方面 を 尋ね て 乃ち震 の あり し 所 を 知る。 之 を 験 する に 事 を以て する に、 合 契 する こと 神 の 若 し。 書 典 に 記 する 所 より 未だ これ あら ざる なり。 嘗て 一 龍 の 機 發 し て 而 も 地 は 動く を 覺 え ず 。京師 の 學者 は 咸 其 の 徴 なき を 怪しむ。 後 數 日 にし て 驛 至る。 果して 地 隴西 に 震 ふ。 是 に 於 て 皆 其 の 妙 に 服 す。 これ より 以後, 乃ち 史官 を して 地動 の 方 に従って 起り し 所 を 記せ しむ。」

接下來,我將逐一詳細說明。

其一 候風地動儀的複製

首先,我們來解釋這個儀器的性能、結構和外觀。在《後漢書·張衡傳》中,對候風地動儀有如下解釋:

"陽嘉元年,再次製作候風地動儀。選用精銅鑄造,圓徑八尺,合蓋隆起,形狀類似酒尊。裝飾上使用篆文、山、龜、鳥、獸等形狀。儀器中央有都柱,周圍設有八條道路,設置關卡,以機關進行操作。外部有八條龍,頭上含銅丸,下面有蟾蜍,口張開以承接銅丸。儀器的牙機被巧妙地隱藏在器尊中,覆蓋物被嚴密地製作,毫無破綻。一旦發生地動,尊就會搖擺,龍機發動,銅丸被噴射出去,而蟾蜍則承接它。震動聲音激烈而響亮,觀者能夠感知並意識到地動。雖然一條龍機啟動,但其他七條龍並未運動,通過查詢它們的方向,可以立即知道震動發生的位置。試驗這個儀器的效果,就像是與神明達成了協議。這種情況尚未在古典典籍中有所記載。曾經有一次,一條龍機啟動,但地面並沒有震動。京師的學者們對此感到懷疑,數日後消息傳來,果然在地隴西發生了地震。從此以後,史官開始按照地動的情況進行記錄。"


今 此 を 按 じ て 見る と、 初 に 概觀 外形 を 掲げ、 次 に 構造 を 説明 し、 終 に 其 の 性能 を 詳説 し て ある。 之 を 解釋 し 得 た 後に 再 讀 し て 見る と、 事理 了解 な 文章 だが、 併 し 都 柱 といふ 文字 の 意味 が 通じ ない 限り、 不可解 な 文字 たる に 相違 ない。 次 に 記す やう に、 ミルン・ 王振鐸 の 両者 共に 此 の 都 柱 が 讀 め なかっ た 爲 、一 龍 發 機 し て 七 首 の 不動 なる 性能 を も 解 し 得 なかつ た やうである。

現在按照這樣的順序來看,首先提出概觀和外形,然後解釋結構,最後詳細說明性能。閱讀之後,我們能夠理解這篇文章的道理,但是如果不了解"都柱"這個詞的含義,就會覺得這是一種不可解的文字。據接下來的記述,由於米倫和王振鐸都不能讀懂"都柱"這個詞,因此似乎無法解釋一龍發機並使七首保持不動的性能。

余 は、 前 に、 ミルン の 著書 を 無條件 に 信じ てゐ たと 言 つた が、 問題 の 記念 事業 を 遂行 する に は 事 を 慎重 に する を 要 し、 先 づ 上記 の 原文 と 彼 の 解釋 した 所 と を 比較 検討 し て 見 た。 さ う すると 驚く では ない か 。全文 誤り で 充 た され て ゐる と いつ て も よい 位 に 誤り が 多い ので ある 。

我之前曾經表示我無條件地相信了米倫的著作,但要執行這個紀念活動,需要非常謹慎,所以我首先比較和研究了上述原文和他的解釋。結果真是令人驚訝,全文充滿了錯誤,錯誤之多足以說它是錯誤的。

先 づ 冒頭 の 陽 嘉 元 年 が 西紀 一 三 六 年 と なつ て ゐる が 此 は 西紀 一 三 二 年 で なけれ ば なら ぬ 。
次 に 器械 の 心臓 部 たる 都 柱 を 誤解 し て 吊り 振子 として ゐる こと で ある。 成 程 吊り 振子 でも 候 風 地動儀 の 性能 を 有 たせる こと は 不 可能 では ある まい が、 非常 に 複雑 な もの に なり、 其 の 組立 方 は 器械 製造 能力 の 進歩 し て ゐる 今日 です ら 容易 では ある まい から、 千 八 百 餘年 前 に 於 て は 猶 更 の こと で ある。 實 に ミルン 博士 も 王 氏 も 此 の 點 に 於 て 失敗 した ので ある。

首先,首句中提到的陽嘉元年是西曆136年,實際上應該是西曆132年。

其次,關於將儀器的核心部分誤解為弔掛擺子。即使採用弔掛擺子的設計,也很難實現候風地動儀的性能,因為這樣的設計非常複雜,而且即使在今天,難以組裝。在1800多年前,這更是一項困難的任務。實際上,米倫博士和王氏在這一點上都失敗了。

ミルン が 都 柱 を 誤解 した こと は 更に 誤 を 擴大 する 素因 と なっ た 。
第 一 に、 圓 蓋 の 頂上 に 長い 筒 を 立て た こと で ある。 此 は 吊り 振子 を 長 振子 と する 爲 の 贅物 で ある。
次 に、 一 龍 發 機 七 首 不動 といふ 性能 を 有 たせる 爲 に、 地震動 の 方向 を 一 方位 に 限る やう に 曲解 し て ゐる。
又、 一 龍 機 發 の 方面 を 按 じ て 震源 の 方位 を 推定 し 得る 性能 を 解釋 する 爲 に、 樽 內 に 地震動 を 記 録 する 裝置 が ある やう に 附加 へ て ゐる。

米倫對都柱的誤解進一步導致了更多的錯誤。
首先,他在圓頂的頂部豎立了一根長筒。這是對弔掛擺子設計中的長振子的不必要的添加。
其次,為了實現一龍發機七首不動的性能,他曲解了地震動的方向,將其限制在一個方位上。
此外,為了解釋一龍機發的方向,以推測震源的方向,他附加了一個裝置,似乎是在桶內記錄地震動的設備。

其 の 他、 些細 な 誤り では ある が、 圓 徑 八 尺 を 圓 徑 八 呎 と した こと、 及び 蟾蜍 を 蛙 と した こと を も 指摘 し なけれ ば なら ぬ。 當時 の 尺 は 呎 の 三 分 の 一 位 に 當 る らしく、 龍 と 蟾蜍 と は、 古來、 支那 に 於 て は 、天地 或 は 陽 陰 を 象徴 する 一 對 の 生物 と 考 へ られ てゐ たから で ある 。

還有一些細微的錯誤,需要指出,比如將圓徑八尺誤寫為圓徑八呎,以及將蟾蜍誤稱為蛙。當時的尺據說是呎的三分之一左右,而龍和蟾蜍在古代中國被視為象徵天地或陰陽的一對生物。

王振鐸 氏 (燕 京 學報 第 二 十 期 十 週年 紀念 專號 )は ミルン 書 所 載 の 長 振子 の 誤 を 指摘 し て、 同 蓋 から 突出し て ゐる 筒 を 取 除い た 點 は 良かっ た が、 併 し 彼 自身 も 猶 ほ 吊り 振子 の 誤解 から 脫卻 する こと が 出來 なかっ た。 そして 圓蓋 內 に 収まる だけ の 短い 吊り 振子 を 取入れ、 之 に 一 龍 發 機 七 首 不動 の 性能 を 有 たせる 爲 、地震動 を 單 に 震源 の 方 から の 押 波 と 其 の 反動 たる 引 波 から 成立 つ もの と 假定 し て、 押 波 で 丸 を 落し て も 引 波 では 反對 の 方位 の 丸 が 落ち ない やう 工夫 を 凝らし た ので ある。 但し 地震動 の 方向 は さ う 簡単 な もの では ない から、 他 の 六 丸 の 墜落 が 抑 へ られ てゐ ない こと は 言 ふ まで も ない 。

王振鐸先生在《燕京學報》第二十期十周年紀念專號中指出了米倫書中關於長振子的錯誤,並指出從同蓋突出的筒應該被去除,這一點是正確的。然而,他自己也無法擺脫對弔掛擺子的誤解。於是,他採用了一個短弔掛擺子,只能在圓蓋內容納,並假設地震動僅由來自震源方向的推波和其反動的牽引波組成,通過巧妙設計,使得推波可以使丸子掉下來,而牽引波則不會使丸子在相反的方向掉下。然而,由於地震動的方向並不是那麼簡單,因此其他六個丸子的落下並沒有被抑制,這是不言而喻的。

以上 兩 者 の 誤解 は 原文 に ある 都 柱 を 正しく 解 し 得 なかっ た こと に 基づく ので ある が 、若 し 之 を 正解 し 得 た なら ば、 其 の 結果 は コロンブス の 卵 と 同様 で あっ たら う 。
都 柱 は 讀 んで 字 の 如く、 中心 の 柱 で ある。 八方 の 通路 を。 都 から 輻射 する 八道 に 譬 へ ある の を 見 て も わかる。 唯 此 の 心 柱 が 何 を 意味 する か が 謎 に なつ て ゐる の だが 、若 し 之 が 倒立 振子 だ と 氣 附 かれ たら 、以下 の 文章 は すら く と 解ける。 特に 一 發 七 不 の 性能 の 如き も 忽ちに 氷解 され る 。
都 柱 の 足 を 細く し て 之 を 正しく 直立 せしめ て 置い た なら ば、 地震 の とき 其 の 不 安定 の 平均 が 容 易 に 破 られ、 柱 は 震動 の 方向 に 倒れ て、 元 へ は 戻ら ない で あらう。 若 し 周囲 に 何等 の 障害 が なかつ た なら ば、 柱 は 最初 の 方向 へ 平伏 し 終る 筈 で ある が、 併 し、 其 處 に は 八 方位 だけ に 柱 の 通路 が 刻ん で ある こと に なつ て ゐる から、 傾い た 柱 は 最 寄 の 通路 へ 嵌り 込ん て 倒れ て 行く。 そして それ が 落 著く 以前 に 於 て、 其 の 通路 に 沿 ひ、 若しくは 之 に 平行 に、 突出し て ゐる 機( 細長い 棒 と 考 へ て よし) を 押 出す こと によって、 其 の 方向 の 龍 首 に ある 丸 を 落す ので ある 。

以上兩者的誤解都基於未能正確理解原文中的都柱。然而,如果能夠正確理解都柱的話,結果可能就如同哥倫布的蛋一樣顯而易見。

都柱應該被理解為一個中心柱,如同其字形,八方通路與都市中放射出的八條道路相對應。唯一讓人迷惑的是都柱的實際含義,但如果我們將其視為倒立擺子,以下的文章將迎刃而解。特別是一發七不的性能等問題也會迎刃而解。

如果將都柱的底部變細並正確豎立,那麼在地震時,其不穩定性會很容易被打破,柱子將倒向震動的方向,且不會回到原位。如果周圍沒有任何障礙,柱子應該平躺在最初的方向上,然而,由於柱子的通路只刻在八個方位上,因此傾斜的柱子會嵌入最近的通路並倒下。在它安頓下來之前,沿著通路或平行於之,通過推出突出的裝置(考慮為細長的棒),就能使其上的丸子在相應的方向上落下。


萩原 理 學士 は 上記 の 條件 に 適する 裝置 を 試作 し て、 之 を 東大 地震 研究 所內 に 據 附け て 實 験し て 見 た が、 結果 は 極めて 良好 で あっ た。 但し、 此 の 時、 使用 した 倒立 振子 は 腳 端 が 直徑 三 粍 の 圓 で あつ て、 重心 の 高 さ が 一 七 糎 に なつ てゐ たから、 これが 正しく 據 附け られ た 場合、 それ を 倒し 得 べき 加速度 の 最小限 度 は 八・七 ガル で ある。 據 附 後 間もなく、 東京 から 南微東 に 當 り、 羽田 邊 を 震央 と した 輕 震 が あっ た が、 此 の 時、 丸 は 西南 の もの が 落ち たから、 振子 を 倒 した 震動 は 主要 部 を なす 橫波 で あっ たと 見える。

理學士萩原試製了符合上述條件的裝置,並將其安裝在東京大學地震研究所內進行實驗,結果非常良好。然而,在這個實驗中使用的倒立擺子底端直徑為三粍的圓形,重心高度為一七糎。因此,在正確安裝的情況下,該擺子所需的最小加速度為8.7 gal。不久之後,地震發生在從東京到南微東的方向,以羽田邊為震中,發生了輕微的震動。在這個時候,丸子是從西南方向掉下的,因此,推測振動導致倒立擺子的是主要構成橫波。

併 し、 地震 に は 最初 から 強い もの も ある から、 丸 が 初動 たる 縦 波 で 落ちる こと も 有る 筈。 され ば 「其 の 方面 を 尋ね て 震 の 在 る 所」 を 知る 爲 に は、 丸 を 落 した 振動 が 果して 初動 で あったか、 將 た 主要 動 で あったか、 之 を 區別 する こと が 必要 と なる 譯 で ある。 「丸 を 吐き、 蟾蜍 之 を 街 んで 振 聲 激しく 揚る」 こと の 性能 が こうに 役立つ ので あらう 。

然而,由於地震可能一開始就很強烈,因此丸子可能是通過初始縱波而落下的。因此,為了了解"其方面を尋ねて震の在る所"(尋找震源的方向)的性能,我們需要區分振動是否確實是通過初始運動,或者是通過主要運動。這就是為什麼"吐き、蟾蜍之を街んで振聲激しく揚る"(吐出,而蟾蜍托舉,聲音嘹亮)這種性能會很有用的原因。


余 も 一 基 を 試作 し て 見 た。 八道 は 之 を 省き、 振子 は 倒れ 初め の 方向 に 倒伏 し、 又 倒れ た 瞬間 に 強い 音 を 出す やう にし て ある。 振子 の 腳 端 は 萩原 式 と 同様 に 直徑 三 粍 の とし、 全體 の 重心 の 高 さ が 一 二 四 粍 に なつ て ゐる から、 之 を 倒す に 足る べき 加速度 の 最小限 度 は 一 一・ 九 ガル で ある。 但し 之 を 正しく 直立 せしめる に、 素手 では 困難 で ある から、 之 を 平易 に する 爲、 簡單 な 裝置 が 施し て ある。

我也試製了一個基礎裝置。八道被省略了,擺子倒在開始傾斜的方向,同時在倒下的瞬間發出強烈的聲音。擺子的底端直徑與萩原的設計相同,為三粍,整體的重心高度為一二四粍,所需的最小加速度為11.9 gal。然而,為了使其正確豎立,使用手工是困難的,因此為了簡化操作,添加了一個簡單的裝置。


斯 くし て 原文 に 記述 され た 通り の 性能 を 有 つ 裝置 が 出來 た 次第 で ある。 若 し 萩原 式 地動儀 に 八龍 八 蟾蜍 を 有 つ 覆蓋 が 加 へ られ たら、 それで 完備 する こと に なる ので ある 。

吾 々 の 希望 は 構造 外形 性能 の 三 者 共に 原文 に 一致 する もの を 作る こと に あっ たから、 慎重 を 期 する 爲、 試み に 龍 の 形態 に関する 研究 を 始めて 見 た。 其 の 結果、 第 一 に 氣 附 かれ た こと は、 服部 一 三 先生 が 明治 八 年 畫工 に 畫 かせ た 候 風 地動儀 の 龍 は、 本邦 獨特 の もの、 恐らく 隋 唐 時代 の もの に 當 る らしい といふ こと で あつ た。 甚だ 末梢 的 な こと では ある が、 調べ た 結果 を 左 に 概説 し て 見 る。


因此,我們成功製造了一個具有原文中描述的性能的裝置。如果將類似萩原設計的覆蓋物加到上面,那麼就可以完善裝置。

我們的期望是製造一個在結構、外形和性能上都與原文一致的裝置。為了謹慎起見,我們試圖對龍的形態進行研究。結果,我們發現的第一件事是,明治八年由服部一三先生繪製的候風地動儀上的龍是獨特的,可能是隋唐時代的風格。雖然這只是一些較為次要的發現,但我將簡要概述一下研究結果。

支那 に 於 て、 昔 から 霊妙 不思議 な 生物 として 取扱 は れ た もの に 龍 ・蟾蜍 並 に 蟬 が ある。 何れ も 一 年 中 陽 盛ん な 季節 に 現れ、 反對 に 陰 盛ん な 季節 に 地下 に 潛む として ある。 此 等 の 生物 の 形象 が 硬玉 に 刻 まれ て、 古墳 や 慶 墟 から 掘 出さ れる こと は 能 く 知 られ た 事實 で ある が、 蟾蜍 や 蟬 の 形象 が、 夏 殷 の 大昔 から 宋 明 の 近世 に 至る まで、 概ね 不 變 で ある に 拘ら ず、 龍 の 形象 だけ は 年代 に 隨 ひ 一々 異な つて ゐる の は 注意 す べき 事項 で ある。 蓋 し 龍 は 生物 と は 稱 し ながら も、 虛構 の もの だから で ある。 そして 漢 時代 の 記録 に は、「 秋分 に は 天 から 降っ て 地下 に 入る」 と 星座 の やう に も 書い て あり、 又 其 の 形象 として 「口 の 両側 に 頬 髭 あり、 腮 の 下 に 珠 を 懐き、 喉 く びに 逆鱗 生じ、 頭上 に 一 つの 瘤 あり」 と ある。 漢 時代 の 作品 たる 帶 止 や 印鑑 の 把手 に 刻ん で ある の も 、頭上 に 一 つの 肉 角 らしい もの が あり く と 見える。

在中國,古代以來就把龍、蟾蜍和蟬視為神秘而奇妙的生物。這些生物都在一年中陽氣旺盛的季節出現,反之在陰氣旺盛的季節潛藏於地下。這些生物的形象被刻在硬玉上,從古墓和廟宇中被挖掘出來是眾所周知的事實。儘管蟾蜍和蟬的形象在夏殷時代至近現代的宋明時期基本保持不變,但龍的形象在年代上有很大的變化,這是需要注意的事項。因為龍被認為是虛構的生物。在漢代的記錄中寫道:"秋分時,從天上降落到地下",並描述了龍的形象:"口的兩側有頰髭,下顎攜帶珠寶,喉嚨下生逆鱗,頭上有一個肉瘤。" 漢代的作品,如帶扣和印章的手柄上也刻有這樣的形象,看起來像是頭上有一個肉角。


兎 に 角、 漢 時代 の もの に 出來る だけ 似せる こと にし、 其 の 製作 方 を 金屬 工藝品 作家 たる 佐藤 省吾 氏 に 委囑 した。 同氏 は 其 の 石膏 模型 の 製作 を 終り、 又 五 臺 分 の 製作 費用 は 對 支 文化 事業 部 から 惠 まれ た ので、 愈 其 の に 取 掛 ろうと した とき、 前記 の 通り、 一時 此 の 事業 を 中止 し なけれ ば な ら なくなっ た 次第 で ある 。

然而,由於我決定儘量與漢代的形象相似,我委託了金屬工藝品製作者佐藤省吾先生來製作這個龍的雕像。佐藤先生完成了石膏模型的製作,而五台雕像的製作費用也得到了對支文化事業部的資助。在準備進一步推進這個項目時,正如前述的原因,我們不得不暫時中止了這個事業。

其他連結
國立科學博物館地震計資料室

支 持 本 站: 捐贈伺服器等運維費用,需要您的支持!

發布時間: